僕たちの果て 広い額に滲んだ汗を、腕で拭って王泥喜は顔を上げた。 「おっどろいた。アンタ、走ってきたの?」 駅通りの交差点。信号機の袂で立ち止まり、流石に息が上がって膝に手を置き呼吸を整えていた王泥喜の頭上から落とされた茜の声は、完全な呆れを含んでいた。 「あ、茜さん…。いや、急げっていうから」 「それにしたって、常識ってものがあるでしょう?」 なんともご無体な茜の言葉に、王泥喜のツノは見事に萎れる。電話を受け、慌てて事務所を飛び出した王泥喜の後ろ姿に、成歩堂親子の嘲笑がどれ程痛かったと思っているのか。 思い出しても赤面してしまう。 「ま、早い方がいいんじゃない? 今週寝てないわよ、あの男」 唇に指先をあてて、茜は上目使いで言葉を続ける。 真ん丸に見開いた王泥喜の目に歩行者用信号機が写っていた。深夜になり点滅を繰り返すそれは、王泥喜の瞬きを代行しているように見える。 「何よ? 聞いてないの?」 「はぁ…。」 「毎日々、くっだらない電話してるくせに。親しいんだか、親しくないんだかわかんないわね、アンタ達」 「………すみません…。」 親しいはず。王泥喜は、頭の中でそう答える。 なんといっても、恋人同士と言う間柄なのだから。けれど、おぼつかない点滅は、変わることなく続いていた。 「あの、俺行きます。」 微妙な思考を振り切る用に走り出した王泥喜に、茜を振り返る余裕はない。 少しばかり口元を上げた茜の悪戯めいた笑みを見たのならば、彼女の意図が知れたはずだ。けれど、響也の真意を追う事に囚われていた王泥喜は、その余裕を失っていた。 深夜のオフィス街は人影もなく、日中の喧噪からは遠く離れた世界のように見えた。自分の息遣いだけが耳に響く、なんて状態は、何の理由もなく世界に存在するのがたった一人であるかのように王泥喜に錯覚させる。 確固たる愛情というものを両親から引き継いで来なかったせいなのか、自分に向けられる情というものに対する価値が揺らぐ。 連絡がなくても、牙琉検事の情は確かに自分に向いているという自信が揺らぐ。 誰にでも人当たりが良い響也のせいだとも言えたが、自分と友人達の境界にはくっきりと線を引いてくれているらしい彼に、責任を押し付けるのはどう考えても具合が悪い。寧ろある一点の除いて、知人と変わらない扱いをしているのは自分の方かもしれない。 好きだと思う自分の気持ちに嘘はない。なのに、不安になる。その理由がわからない。 「あ〜もう。」 一声唸って、頭を掻きむしると、王泥喜は思考の全てを放棄した。 不夜城なんて呼ばれ方をする街だが、本当に眠らない場所は警察と消防だけ。 ハァハァと息を切らして走り込めば、検察庁の玄関を守る守衛に胡散臭そうな視線を送られた。職務質問をされそうな雰囲気に、愛想笑いを返して周囲を見回す。 そして、玄関脇にある植え込みのタイルに腰を降ろして、袋に手をつっこんでかりんとうを食べている響也を発見した。その横には別の守衛が立っていて、彼にも分け与えているようで、ふたりで口を動かす様はなんとも言えずに可笑しい。 クスリと王泥喜が笑うと、背中に刺さる視線が鋭さを増す。慌てて、響也を呼んだ。 「牙琉検事!」 声が届くと響也はそのままの姿勢で顔を上げる。おデコくんと唇が動いた。 けれど、立ち上がろうとはしない。怠そうな様子で視線を返す響也の前に立つと、指先を額に伸ばす。王泥喜にじわと伝わる熱さが確かな病状を教えてくれた。 自然に眉間に皺がよった。 「随分熱い…ですよ。」 「そうかい? 余り自覚はないんだけど。」 王泥喜の手の上に自分の手を重ねた響也に、王泥喜は溜息を隠さない。 「俺の体温を測ってどうするんですか。」 「あ、そうか。でも、おデコくんの手も熱いなぁ。」 うっとりと瞼を落とした響也に、王泥喜は額と掌に挟まれた手を慌てて抜いた。守衛さんの視線が痛いのも原因なのだったが、性的対象としてみている相手。なにげない仕草に確かな反応をしてしまう。若さ故の過ちって奴だ。 「さ、帰りましょう。茜さんに頼まれた以上送ってあげますから。立てますか?」 「うん、おデコくん何で来たの? 自転車?」 「公共交通機関です。俺は免許ないんで、検察庁から自転車の二人乗りで帰る勇気はありません。」 「ん。」 納得したのか、袋ごと残りのかりんとうを守衛さんに押し付けて立ち上がる。 『お気を付けて』と、菓子袋を片手に敬礼をする彼に手をひらと振って、王泥喜の後ろをついて来た。暫く駅に向かって歩いていたが、響也のおぼつかない足取りが気になって、王泥喜は立ち止まる。 飼い主と飼い犬のようなこの位置関係もなんとなく嫌だった。 「どうしたの?」 小首を傾げる相手に、左手を差し出す。王泥喜にとって、少しばかり勇気を必要とする言葉を告げる為に、態度は少しぶっきらぼうになってしまった。 「手繋ぎましょうか?」 途端、(元々熱で頬は赤かったけれど)ぱっと笑顔に変わった。余りの反応の良さに、王泥喜の方が赤面した。 アンタ素直すぎるって。 「良いの?」 台詞は疑問系。けれど、響也の右手は既に王泥喜の指先を掴んでいる。そうしながら、言葉を続ける。「人通るよ?」 「通りませんよ。初めてきましたけど、の深夜のオフィス街ってゴーストタウンみたいですね。」 「確かに昼間は賑やかな分、寂しいかもね。」 上機嫌で、下手をすると腕をぶんぶん振り回しそうな響也に、王泥喜は苦笑するしかない。そして、普段なら颯爽と歩く響也のゆっくりとした足取りに合わせて歩き始めた。 content/ next |